懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

『黒い雨』井伏鱒二著

 

昔読んで書き付けてあった、雑駁なmemorandumがふと目に留まったので此処に記しておこうと思う。

 

其れは数行しかない文章だけれど、それでも当時の私の受けた影響だと思うから。

本の少しの受けた印象でも大切にするべきだと思うんだ。

 

そして回想して感じることだけれど、未熟で自己本位で身勝手で世間知らずの私の文章。其れは今に至るまで変わっていないのだけれど。それでも自己の低劣を真っ当に広げて記すことには意味があると思うから。私は広島や原子爆弾について全くの無知だし、知識というよりも感情的な部位で圧倒的に欠けていると思う。それでもこんなことずけずけと書いているのだね。傲慢だ。でも……。

 

 

 

『黒い雨』について。(日記帳より)

 

原爆を被爆した後の広島に於ける話である。悲劇的出来事を書く小説は時に過剰に悲しみ・苦しみを描出するものだが、其の悲しみが乾燥されて横たわっている。

一瞬間の閃光。当時広島に居住していた人々は異様な光景に唖然と立ち竦んだ。次には、未曾有の出来事に感覚が麻痺してしまうか、生きるために倒錯した日常を無防備に受け入れるしかなかった。其の当時の人々が過ごした日常風景を並べ、其処には確かに惨状がまざまざと現れる。

一方で人間は其の絶望を普通のこととして捉えて生活を立ち直らせる必要があった。『黒い雨』の小説の裡の市民は生きているのである。生活しているのである。つまり性格があり、思考があり、個人があり、全世界と同じ人間がいた。悲しみ嘆き・痛む人々は同時に前を向いて生きていたのだ。

否、非常識的な環境を受け入れるしかなかった。『黒い雨』が小説として成り立つのは悲しみだけを選ばなかったからだ。燃料を得るため、食物を探すため、家族に会うため、焼け野原の上で行動した人々が存在する。人間はどんな時代でもどんな国でも生きているのだ。この小説は背景が余りに日常と乖離している。そして、現状を日常として生き抜いた私たちが描かれている。

主題は悲しみではない。人間の生活を行使する動力。生命力。多くの場合格好よくないだろう。倫理に悖り非衛生的な生活ばかりである。そんな在りのままの営為を掬い取って紙面に広げたのだね。つまり無力感と同時に生命力が双立する。どん底でも生き抜くことを志向する生命力と自己を肯定するしかない無力感。例えば、頬の剥がれ落ちた顔を、受け入れ慈しんだ彼。何故なら自分の毎朝鏡面に映す顔なのであるから。肌膚に突き刺さった棘の方向が多様でも真逆でも矛盾であったとしても、針の突き抜ける一点へ細胞は生成を繰り返す。肯うために自身の両腕で抱き留める。

此の無力感は無関心と異なり、非常に生々しい。手と足を持った人間の根源的な性質を訊いているのだね。

 

 

 

 

という感想を書いているぽくて。何が言いたかったのだろう?多分、広島市内で被爆し生き残った若しくは亡くなった人々と私は1μすら変わらないだろうということを実感したんだと思う。もっと身近で密接で、「恐怖」や「絶対」という言葉で括ってしまうよりも、普遍的に人間の一番奥に巣くう悲しみであった気がしたんだと思う。

 

けど正直なところ私には分からない。

分からないし……これ以上書くことは最大限の精神力を必要とすると思う。

 

でもきっと本当は書かないよりも書いたほうがいいのだと思う。

其のことを知っています。

 

 

『黒い雨』井伏鱒二