懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

物凄くヒドイ文章を書きます。

 

 

今日突然思ったこと。 → 私は私のことについて書かなければいけない。

 

 

自分のことを書くのが、文学で

 

自分のことを描くのが、絵画で

 

自分のことを映すのが、映画で

 

自分のことを奏でるのが、音楽で。

 

多分全ての物事の延長線上に自分がいないと成立しないと思う。

 

少し傲慢な言い方になってしまっているのだけれど、自分が文章を書く場合、自分のことを書かなければ意味がないと思うのだ。どんな本を読んだかよりも、其れを受けてどんな風に感じたかの部分なんだね。どんな日常生活を送ったかよりも、その中で織り成される感情や苦悩・感動を大切にしたいと願うのだね。でも行動と内容は二つで一つだから、それらを区別して論じている時点で私もまた誤謬を犯しているのだけども……。

 

私は自分のことについて書くのが苦手で。でも自分の気持ちや感情でなければ書けない程にはまた不器用で。だから素直に正直に書いていくしか仕方ないのだ。

 

けれど、その結果が100%の自分の新鮮な気持ちかというと疑問ももちろんあって、嘘ではないけれど何か自分のほんとの本筋から外れた岐路の感情について言ったり書いたりしていることも多いのだね。真っすぐな誠実な心根、其れは誰しもが根底に蔵していてでも其れを真摯に伝えられるのは本当に勇気のいる行為だから。そして私は気にしいだから尚更言葉の伝達に躊躇してしまうのだ。

 

でも真実の問題点は、「素直な言葉を伝えられない」というよりも「素直に伝えられなかったことに対して悩んでしまう」という点なのかもしれないね。人との会話で話題が「人間関係上のcommunication」の話になったとき、どうも100%の人間関係みたいなものは求められていないのかなっていう結論になることが結構多いのです。だから意外とみんな適当な処で人と巧く合わせてバランスをとってるのかな?表面上の社交辞令とか気にしない人のほうが多いのかな。

 

その辺りを中途半端に真面目に考えてしまうところが私の悪いところだね。でも今まで数十年間は自分の身体と精神と付き合ってきて分かったのだけれど、恐らく中枢神経のlevelでそういうこと考えてしまうtypeだ。きっと。お世辞とか裏表とか昔と比べたら大分うまくなったと実感するけど、それでも未だに悪い意味で「素直すぎる」とか「真面目すぎる」とか言われるから根幹の部分は昔の儘なのだろうね。ただ自分が不器用なことはもう重々承知したから、不器用さを或る程度人に見せて付き合っていくことの抵抗が薄れたことはいい点かな。反対に”不器用”を”器用”に取り繕おうとすると壊滅的被害が生じるので。ほんとうに。

 

こんなこと偉そうに書いているけれど、今も夜中に涙が止まらなくなる日があるのです。其れは自分でも無意識的な悲しみや感動であって、私は今も心に鬱屈があるのだろうかと疑うのです。分からないのです。分からないのです。悩みながら選んだ自分の方向があっているのか。若しかしたら物凄く自分を擦り減らしているのだろうか?其れは怖いのです。でも自分を擦り減らさない人はいないから。

 

私は全ての人間に生きていてほしいのです。其れだけが私の原動力なのです。とてつもなく身勝手な望みだけれど……。でも今の私じゃ人を救えないから。もっともっと勉強しないと駄目だから。今まで自分が助られてきた分は返したいと不遜な私は思うのです。人間は一人きりでは絶対に生きられない。と思うし、でも「孤独」も恐ろしいけれど必要なものだと。

 

 

 

現代の社会では……。急に話が壮大な話になってしまったけれど。”マルキシズム”について私はよく知らないけれど、でもそういう言葉を避けては通れないと思うし。

 

機械産業が活発化して、其のことは全く同じ色・形・大きさの製品を大量に作ることを可能にした。だから私たちは商品の製作者について注意を払わなくなった。何故ならAさんが作ったとしてもBさんが作ったとしても完全に同じものが出来てしまうから。商品による作り手の判別が実質不可能になったのだ。つまり私たちにとって”もの”の価値だけが取り出されて携わる”人間”の存在は意識から取り零されてしまったのだ。

 

例えば、私がスーパーで林檎を買うとして、其処には林檎を植えた人・育てた人・運送した人・店頭で販売した人、様々な人が携わっている筈だけれど、その人々に対する感謝や関係性はどんどん希薄になっていると思うのだ。此の現象を人間自身が商品化されたと言うのかな?

 

モノだけを買うのか、人から買うのか、此の意識の違いは結構大きいと思うのだ。でも其れは、現代に生きる私たち一人ひとりの選択に依るのだね。でも此のどれだけ機械化を推し進めるかという考え方には限界もあると考えていて。

 

例えば、映画『ファンタスティック・プラネット』には頭に巻くだけで全ての知識を得られる未来の装置が描かれているけれど、遠い未来若しそんな便利な機器が発明されたとして、私たちは其れを使うのだろうか?私は曖昧に違和感と恐怖心を覚えるし、恐らく今の私たちのほとんどは抵抗感が強いと思う。でも其れは純粋に気持ちの上での問題で、知識を得るという結果は同じなのだから、近未来機器を使うか、本とノートで覚えるかは単純にそれぞれの主体性の問題なのです。自身が許容範囲の境界線を何処に引くかという一点のみです。そして其れは全く任意なものであります。

 

だから色んな選択肢が当然あるんですが……、私個人としては此のLineの引き方は機械化100%にはできないと考えています。其の前提を満たすとすると、感情とか葛藤とかいう要素は欠落してしまうと思うので、人間の意志の介在しない循環系しか残らないと思うのです。人間性が消失してしまう?人間が人間である限り限界は有るのです。

 

さらに言うと、私は人間の脈絡の無い不合理性をとても大切にしたいと思っていて。其れは全く個人の自由ですけれど、それでも自分の目で見て、聴いて、心から感じたいなと常々思うのです。だからこんな意味の無い文章も感傷的につらつら書いてしまうし。

 

合理性や目的というよりも広大な世界に於ける一個人の単なる姿勢の問題であって、しかも其れを自分自身で肯定していかなければならないという難しい時代ですね。

 

自分の弱さを曝け出せる人は本当に素敵だなって思うのです。

 

 

 

 

この世界め!