懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

私のidentity確立方法と課題

 

感情型と数値型と一般的にformat化されるけれど、其れで言うと私は明らかに感情型で。それも恐らく意識的に其の方向を目指して過去に規定した。

 

私が数値型でない根拠は、携帯電話を契約した時期がほかの人よりも大分遅かったり、機械類に対する恐怖感、時間や数字管理に対する抵抗感、金銭に対するちょっとした無関心からも示されると思う。

 

私はある時精神が袋小路に入り沈潜していた時期があるから、其の暗闇を抜け出すために自身の自身に対する自己受容をする必要があった。私の方法は他者からの承認ではなく、其処まで強くはなかったから他者を拒絶して自分を認められる世界を内に作っていった。だから感情論を最上位に置いて、其の内面で遊んでいた訳だ。其の世界では自分の基準を自由に設えて自己の行動を正当化できる。其れは少しく必死な戦いでもあった。「常識と馬が合わない」と勝手に決めつけていた私は屁理屈を無尽蔵に積み上げて行った。自己防衛の武器。

 

私が数字の物差しを嫌う理由は其のことによって自己の領域が失われることを恐れるからだ。必死に自己保存を行った昔の焦りが心の奥に染みついているからだ。自分が”可愛い””可愛い”なんだね。バラバラになってしまいそうなんだ。

 

けれど今の自分であれば、……数字を追う日々が続いても自己崩壊を来たす恐れは少ないと思う。日月を経て多少は一辺倒の価値観から抜け出せているから。どうにか感情型の歯車をプラスに推し進めることができた。だからもう少し”数字”や”結果”という考え方をこれからの生活に組み込んでいこうと思う。其れが今の自分にとって一番欠けているものだと思う。

 

「強さ」と「弱さ」を逆のベクトルで私は考えていた。でも「弱さ」+「強さ」っていう考え方もありなんじゃないかなって思う。「強さ」があるから「弱さ」を守ることができる。その逆も又然り。私は明らかに「弱い」人間であり、「強さ」は何かを捨て去るというイメージがしてとても恐ろしいのだ。けれど、今の自己は不完全で、其れは「強さ」を受容・志向できていないためだ。「弱さ」と縫い合わせるための「強さ」を。

 

自分自身に対する挑戦なのです。どうなるだろうか?

でもやってみたい。

<identityの再構築>

 

今まで見た映画リスト

 

 

今まで見た映画をちょっと書き出してみたら、100ちょっとぐらいだった。

 

多分普通の人が見る数よりも少ないよね。

 

時々見て本当によかったなって思える映画に出会えるから、映画は好きなのです。

好きな映画のジャンルは、ハートフルや淡々とした日常を切り取ったもの、すごく其処に一人の人間の感情が編み込まれているもの。ドグマ95の映画はそんなに見てないけど、『ジュリアン』とか『イディオッツ』とか好きだったのです。

 

 

今まで見た映画リスト(ざっくり)↓↓

 

 

三月のライオン(矢崎仁司)〇

distance(是枝裕和

ワンダフルライフ

空気人形〇

幻の月〇

歩いても歩いても

万引き家族

リリイシュシュの全て(岩井俊二

花とアリス殺人事件

リップヴァンウィンクルの花嫁〇

undo

picnic

スワロウテイル

四月物語

loveletter

謎の転校生

水の中の8月〇

デルスウザーラ(黒澤明)〇

8月のラプソディ

ラヂオの時間三谷幸喜)〇

素敵な金縛り

カメラを止めるな

ザマジックアワー

しんぼる(松本人志

大日本人

アフタースクール(内田けんじ)

桐島部活止めるってよ

茶の味石井克人)〇

羊たちの沈黙

セッション

into the wild 

時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック

シャイニング

博士の異常な愛情

スリーパー

月を追いかけて

ワイルドストロベリー

レッドデザート

蜜蜂のささやき〇

男性・女性〇

シンドラーのリストスティーブン・スピルバーグ

戦火の馬

ペンタゴンズペーパー

ジョーズ

インディジョーンズ

ET

バックトゥザフューチャー1.2

激突

グーニーズ

knocking on the heavens door

jackie brown(クエンティン・タランティーノ

サスペリアpart2

エスター

ガープの世界

Newyork I love you

mothers 

fathers

シャイン

top gun マーベリック

イディオッツ (ラース・フォン・トリマー)〇

dog ville

ダンサーインザダーク〇

メランコリア

アンチクリスト

シックスセンス (M・ナイト・シャマラン

アンブレイカブル

レッドライト

star wars episode4.5

green mile 

ショーシャンクの空に

キューブ

マトリックス

escape room

レインマン

アンダルシアの犬

グレーテストショウマン

ゴーストワールド

スティング

ティファニーで朝食を

ハスラー

フェイク

バタフライイフェクト

ある天文学者の恋文

インセプションクリストファー・ノーラン

メメント

ライフ!

エレファント

バトル・オブ・セクシーズ

チョコレートドーナッツ

アポロ13

ある愛の詩

マンダラ

ジュマンジ1.2

最高の人生の選び方

ボブという名の猫

mission impossible1.2

ファイトクラブ

星に想いを

愛は静けさの中に〇

オリエント急行殺人事件

オーシャンズ11

レオン

エグザム

ed wood〇

カクテル

崖っぷちの男

トゥルーマンショー

レ・ミゼラブル

スラムドッグミリオネア

カッコーの巣の上で

タクシードライバー

エレファントマ

裸の銃を持つ男

シティオブゴット

フォレストガンプ

ジュリアン〇

the celebration

ロゼッタ

ダイヤルMを廻せ

ミクロの決死圏

鉄男

blue deep ocean

未来を生きる君たちへ

きっとうまくいく

paterson

グッドウィルハンティング

 

大分抜けもあると思うけど…。でもこうして改めて書き出してみると、結構少ないのね。右側に〇印が書いてあるものが私が見て本当に好きな映画で。

其処には大分偏りがあることが見て取れるけれど。

私に拘らずできるだけ色んな映画を見てみたいのです。

そしてやっぱり映画の中の世界と私たちと繋がりのあるほうが好きだな。

例えば『ロゼッタ』とか映画の終わりからが物語の再出発の感じがして凄い好きだな。

私は映画が日常生活を誇張して写し取るものだと知っているから。けれども其の2者間の軋轢が増大すると耐えきれなくなってしまうと思う。だから敢えて起伏の少ない映像に重きを置く人々の気持ちもわかる。其れはつまり娯楽映像というよりも記録映像に近いのだね。

映画の終わりが私たちの生活のスタート地点になっているもの。そういう作品が最も人間に対して伝達能力を有していると考えていて。映画は映画の中だけで完結しない。多分其れを私たちが美しいと感じたならば生涯続いて行くと思うのです。そして、美しいと感じる感情は、「かっこいいもの」よりも「かっこわるいもの」に感応すると思うのですね。

 

でもね一番大事なことは、映画が好きだということ。それだけ!!!

ちょっとだけ嬉しいこと

 

 

wilkie collinsの『moon stone』を読みました。

 

もうかれこれ4年?くらい読んでいるのだけれど、この前遂に読み切ったのです。

 

ミステリー小説で、其れほど私がミステリーに耽溺していないので、面白いかと訊かれると首肯し難くも又あるのですが……。

 

ほとんどは読み始めた自分に対する区切りとして、其のことを目的として最後まで読み切りました。

 

内容は普通に面白いと思います。ただストーリーとして私が入り込みにくい部分としては、どうしても事実の列挙を基に組み立てられている物語なので、登場人物の心理描写がミステリー小説の範疇以上に踏み込まれていないところなのかな?でも其れは当たり前なのですけれど……。ね。そんなこと言うならミステリー小説読むな!っていう話だもんね。

 

私としては自分が読み終えることができたことが結構嬉しいな~~。

自分に其れくらいの忍耐力が残っていて良かった。本当に。

 

っていう其れだけの話なのです。

何か本当に少しのことでいいから、続けていけたらなって思います。

+αできるだけ明るくね。

読書ってただ楽しいね!

 

あと私は1冊読み終わるのに4年掛かりました。

此の駄目駄目さが誰かの励みになれば嬉しいな。

励みになる………かな?

 

 

『黒い雨』井伏鱒二著

 

昔読んで書き付けてあった、雑駁なmemorandumがふと目に留まったので此処に記しておこうと思う。

 

其れは数行しかない文章だけれど、それでも当時の私の受けた影響だと思うから。

本の少しの受けた印象でも大切にするべきだと思うんだ。

 

そして回想して感じることだけれど、未熟で自己本位で身勝手で世間知らずの私の文章。其れは今に至るまで変わっていないのだけれど。それでも自己の低劣を真っ当に広げて記すことには意味があると思うから。私は広島や原子爆弾について全くの無知だし、知識というよりも感情的な部位で圧倒的に欠けていると思う。それでもこんなことずけずけと書いているのだね。傲慢だ。でも……。

 

 

 

『黒い雨』について。(日記帳より)

 

原爆を被爆した後の広島に於ける話である。悲劇的出来事を書く小説は時に過剰に悲しみ・苦しみを描出するものだが、其の悲しみが乾燥されて横たわっている。

一瞬間の閃光。当時広島に居住していた人々は異様な光景に唖然と立ち竦んだ。次には、未曾有の出来事に感覚が麻痺してしまうか、生きるために倒錯した日常を無防備に受け入れるしかなかった。其の当時の人々が過ごした日常風景を並べ、其処には確かに惨状がまざまざと現れる。

一方で人間は其の絶望を普通のこととして捉えて生活を立ち直らせる必要があった。『黒い雨』の小説の裡の市民は生きているのである。生活しているのである。つまり性格があり、思考があり、個人があり、全世界と同じ人間がいた。悲しみ嘆き・痛む人々は同時に前を向いて生きていたのだ。

否、非常識的な環境を受け入れるしかなかった。『黒い雨』が小説として成り立つのは悲しみだけを選ばなかったからだ。燃料を得るため、食物を探すため、家族に会うため、焼け野原の上で行動した人々が存在する。人間はどんな時代でもどんな国でも生きているのだ。この小説は背景が余りに日常と乖離している。そして、現状を日常として生き抜いた私たちが描かれている。

主題は悲しみではない。人間の生活を行使する動力。生命力。多くの場合格好よくないだろう。倫理に悖り非衛生的な生活ばかりである。そんな在りのままの営為を掬い取って紙面に広げたのだね。つまり無力感と同時に生命力が双立する。どん底でも生き抜くことを志向する生命力と自己を肯定するしかない無力感。例えば、頬の剥がれ落ちた顔を、受け入れ慈しんだ彼。何故なら自分の毎朝鏡面に映す顔なのであるから。肌膚に突き刺さった棘の方向が多様でも真逆でも矛盾であったとしても、針の突き抜ける一点へ細胞は生成を繰り返す。肯うために自身の両腕で抱き留める。

此の無力感は無関心と異なり、非常に生々しい。手と足を持った人間の根源的な性質を訊いているのだね。

 

 

 

 

という感想を書いているぽくて。何が言いたかったのだろう?多分、広島市内で被爆し生き残った若しくは亡くなった人々と私は1μすら変わらないだろうということを実感したんだと思う。もっと身近で密接で、「恐怖」や「絶対」という言葉で括ってしまうよりも、普遍的に人間の一番奥に巣くう悲しみであった気がしたんだと思う。

 

けど正直なところ私には分からない。

分からないし……これ以上書くことは最大限の精神力を必要とすると思う。

 

でもきっと本当は書かないよりも書いたほうがいいのだと思う。

其のことを知っています。

 

 

『黒い雨』井伏鱒二



 

 

物凄くヒドイ文章を書きます。

 

 

今日突然思ったこと。 → 私は私のことについて書かなければいけない。

 

 

自分のことを書くのが、文学で

 

自分のことを描くのが、絵画で

 

自分のことを映すのが、映画で

 

自分のことを奏でるのが、音楽で。

 

多分全ての物事の延長線上に自分がいないと成立しないと思う。

 

少し傲慢な言い方になってしまっているのだけれど、自分が文章を書く場合、自分のことを書かなければ意味がないと思うのだ。どんな本を読んだかよりも、其れを受けてどんな風に感じたかの部分なんだね。どんな日常生活を送ったかよりも、その中で織り成される感情や苦悩・感動を大切にしたいと願うのだね。でも行動と内容は二つで一つだから、それらを区別して論じている時点で私もまた誤謬を犯しているのだけども……。

 

私は自分のことについて書くのが苦手で。でも自分の気持ちや感情でなければ書けない程にはまた不器用で。だから素直に正直に書いていくしか仕方ないのだ。

 

けれど、その結果が100%の自分の新鮮な気持ちかというと疑問ももちろんあって、嘘ではないけれど何か自分のほんとの本筋から外れた岐路の感情について言ったり書いたりしていることも多いのだね。真っすぐな誠実な心根、其れは誰しもが根底に蔵していてでも其れを真摯に伝えられるのは本当に勇気のいる行為だから。そして私は気にしいだから尚更言葉の伝達に躊躇してしまうのだ。

 

でも真実の問題点は、「素直な言葉を伝えられない」というよりも「素直に伝えられなかったことに対して悩んでしまう」という点なのかもしれないね。人との会話で話題が「人間関係上のcommunication」の話になったとき、どうも100%の人間関係みたいなものは求められていないのかなっていう結論になることが結構多いのです。だから意外とみんな適当な処で人と巧く合わせてバランスをとってるのかな?表面上の社交辞令とか気にしない人のほうが多いのかな。

 

その辺りを中途半端に真面目に考えてしまうところが私の悪いところだね。でも今まで数十年間は自分の身体と精神と付き合ってきて分かったのだけれど、恐らく中枢神経のlevelでそういうこと考えてしまうtypeだ。きっと。お世辞とか裏表とか昔と比べたら大分うまくなったと実感するけど、それでも未だに悪い意味で「素直すぎる」とか「真面目すぎる」とか言われるから根幹の部分は昔の儘なのだろうね。ただ自分が不器用なことはもう重々承知したから、不器用さを或る程度人に見せて付き合っていくことの抵抗が薄れたことはいい点かな。反対に”不器用”を”器用”に取り繕おうとすると壊滅的被害が生じるので。ほんとうに。

 

こんなこと偉そうに書いているけれど、今も夜中に涙が止まらなくなる日があるのです。其れは自分でも無意識的な悲しみや感動であって、私は今も心に鬱屈があるのだろうかと疑うのです。分からないのです。分からないのです。悩みながら選んだ自分の方向があっているのか。若しかしたら物凄く自分を擦り減らしているのだろうか?其れは怖いのです。でも自分を擦り減らさない人はいないから。

 

私は全ての人間に生きていてほしいのです。其れだけが私の原動力なのです。とてつもなく身勝手な望みだけれど……。でも今の私じゃ人を救えないから。もっともっと勉強しないと駄目だから。今まで自分が助られてきた分は返したいと不遜な私は思うのです。人間は一人きりでは絶対に生きられない。と思うし、でも「孤独」も恐ろしいけれど必要なものだと。

 

 

 

現代の社会では……。急に話が壮大な話になってしまったけれど。”マルキシズム”について私はよく知らないけれど、でもそういう言葉を避けては通れないと思うし。

 

機械産業が活発化して、其のことは全く同じ色・形・大きさの製品を大量に作ることを可能にした。だから私たちは商品の製作者について注意を払わなくなった。何故ならAさんが作ったとしてもBさんが作ったとしても完全に同じものが出来てしまうから。商品による作り手の判別が実質不可能になったのだ。つまり私たちにとって”もの”の価値だけが取り出されて携わる”人間”の存在は意識から取り零されてしまったのだ。

 

例えば、私がスーパーで林檎を買うとして、其処には林檎を植えた人・育てた人・運送した人・店頭で販売した人、様々な人が携わっている筈だけれど、その人々に対する感謝や関係性はどんどん希薄になっていると思うのだ。此の現象を人間自身が商品化されたと言うのかな?

 

モノだけを買うのか、人から買うのか、此の意識の違いは結構大きいと思うのだ。でも其れは、現代に生きる私たち一人ひとりの選択に依るのだね。でも此のどれだけ機械化を推し進めるかという考え方には限界もあると考えていて。

 

例えば、映画『ファンタスティック・プラネット』には頭に巻くだけで全ての知識を得られる未来の装置が描かれているけれど、遠い未来若しそんな便利な機器が発明されたとして、私たちは其れを使うのだろうか?私は曖昧に違和感と恐怖心を覚えるし、恐らく今の私たちのほとんどは抵抗感が強いと思う。でも其れは純粋に気持ちの上での問題で、知識を得るという結果は同じなのだから、近未来機器を使うか、本とノートで覚えるかは単純にそれぞれの主体性の問題なのです。自身が許容範囲の境界線を何処に引くかという一点のみです。そして其れは全く任意なものであります。

 

だから色んな選択肢が当然あるんですが……、私個人としては此のLineの引き方は機械化100%にはできないと考えています。其の前提を満たすとすると、感情とか葛藤とかいう要素は欠落してしまうと思うので、人間の意志の介在しない循環系しか残らないと思うのです。人間性が消失してしまう?人間が人間である限り限界は有るのです。

 

さらに言うと、私は人間の脈絡の無い不合理性をとても大切にしたいと思っていて。其れは全く個人の自由ですけれど、それでも自分の目で見て、聴いて、心から感じたいなと常々思うのです。だからこんな意味の無い文章も感傷的につらつら書いてしまうし。

 

合理性や目的というよりも広大な世界に於ける一個人の単なる姿勢の問題であって、しかも其れを自分自身で肯定していかなければならないという難しい時代ですね。

 

自分の弱さを曝け出せる人は本当に素敵だなって思うのです。

 

 

 

 

この世界め!

ただ波濤を眺めるだけでもいいよね?

 

 

 

 

 

 

釣りに行ってきました。一人で。訳も分からず。意味もなく。なぜ……?

 

 

私の知り合いの方が釣りが趣味なので、私も少しでも話題を合わせようかなと思って釣り道具を買ったのです。其れが1年以上前くらい……?

魚を釣ることに対してそんなに情熱を持っていないので、それから1年以上釣り竿も網も放りっぱなしで……、ほんとに可哀そうなのでした。目につく度に心が痛んで。

でも初心者の中でも初心者の私、竿の振り方も糸?の結び方も知らない私が釣りに行くぞ!と心を燃やすのは結構”果断”であったりするのです。ほんとにね。だって行ったって大惨事にしかならないもの。

 

釣れる訳はないので、ルアーを投げる練習にでもなればいいのかなっていう気楽な心持になれたので、どうにか行く踏ん切りが着きました。

釣りが好きだという印象は私の中で無いので、楽しいかと言われると微妙なのですが、新しい挑戦という観点から見るととても新鮮な経験なのです。途中で満足したので、1時間半くらいで帰って来ましたが、それでも行ってよかったかな……って思います。凄く精神の鍛練になるんじゃないかなと思います。私の場合は、どれだけ釣り竿を投げては戻す一連の動作の繰り返しの中で素直な面白さを発見できるかという……。単純な操作には純朴な魅力があるのですから。

 

 

まあ無理の無い程度で時々(2か月に1回くらい?其れは怠けすぎかな)出来ればいいかなってぐらいにはプラスに考えています。う~~ん。どうだろう。

釣れるともっともっと楽しいんだろうけど。

 

 

 

 

あと砂浜の上で読書ができたので、其れはとても嬉しかったのです。蛇足だけど、それでも好きだから。

 

 

『人間の自由について』高桑純夫著

ホットコーヒーよりも温かい言葉をください。本当に

 

 

夜に見上げた月が剰りに美しいから、

文章を書きたくなるじゃないか………?

 

夜道を一人で歩いているとどうしても考え事をしてしまうよね。

此れはそんなある日に考えたお話。

そしてまた本当にあった話。

 

 

 

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茜色の空は人々を幻想的な気分に変える。

 

この時刻は、未知の惑星や文化や機械文明……など様々な観念が人々の頭上を去来する狭間の瞬間。其れぐらい心の底の柔い想像癖を鮮やかに摩滅するのだ。

 

私は駅の構内から地上に脚を降り立てて、外気の夕方特有の曖昧な寒暖差に身を任せていた。広い空には、少しずつ太陽が遠風景に沈みかけている。

 

帰宅目的の人々は私の脇を軽やかに擦り抜けて過ぎ去るけれど、私はもう少しこの少し気怠気で常温の時間帯を麗らかに楽しみたいと願っていた。

 

アスファルトの路の反対側から一人の少女が私へ向かって駆けてくる。其のリュックに結び付けられたキーホルダーは、少女の両足が跳ね上がる度に、楽隊のトランペット奏者のような豊かな音色を響かせる。皆は、其の金属面の擦れる音エネルギ―の反響に振り向くけれど、当の本人は含羞みながら真っすぐに私の目前まで駆け抜ける。きちんと洗濯された一足の水色シューズが”ちょこん”と私の目の前まで来て止まった。

 

「空を飛ぶ車があったよ。………!」

 

遂にspilbergの世界が到来したのかな?私は少女の微笑む口元から零れる言葉を受け取って、思わず”美しい”人だと思ってしまった。きっと澄んだ瞳を一心に伸ばしていける人でないと、大空を信じてしまうことは出来ないんだね。私は少女の温かい黒髪と雀斑のある頬っぺを見ていた。

 

そして少女の左腕と左手と其の左人差し指が指し示す方向へソッと顔を向けた。

其処には緑と青の二色で染色された一台のタクシーが停まっていた。

 

そして其のタクシーのフロントガラスには、”空車”と描かれた赤いランプが乗車するお客さんを待ってテカテカと光っていたんだ。

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