懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

とりあえずの読書の記録

 

  一つのことをやる時は、他のすべてを忘れてしまっていい。其れぐらいの愚鈍であってよいと思う。

 

最近といっても此処一か月くらいだろうか。とりあえずどうにかこうにか読み終わった本を記録しておこうと思う。読み終わったのが最近という意味で、結構一冊の本を読破するのに数か月はザラで、時には数年掛かる時もある。かなり私は寛容な読書計画を練るのであるから。本を読むことは人並みには好きで、速読は苦手です。少しずつ少しづつ読んでいけばそれでいいと思う。

 

 

 

 

 

 

・『物理の散歩道』ロゲルギスト著 岩波書店

 物理学の理論と言うよりも、日常的な風景の裡に物理学を見出そうかという軽いエッ         セイ。私の場合、理論よりも感情を重視するタイプなので、学術書と言うか専門書っぽい本は基本的に此の系統の書籍で読む場合が多い。内容は難しくてほとんど理解できないのですが、雰囲気は楽しい。

 

・『数学へのプレリュード』W.W.ソーヤー著 みすず書房

 上記の『物理の散歩道』と似たジャンルの本です。ただもう少し奥深く記述されています。哲学的な数学の入門書です。何度読んでも面白さは色褪せない。

 

・『猛獣の心に計算機の手を』安部公房著 平凡社

 演劇論ですね。映画と演劇の違いについても論じられています。映画は観る人との間に距離があって、演劇は自分も当事者として没入する程至近距離であるという感覚的距離の差があるらしいです。例えば、映画の見方は当事者と言うよりも俯瞰的に写すカメラレンズの視点なんですね。全編を通して、安部公房さんの異常性に対する愛着?といったようなものが伝わります。

 

・『ハロウィーンがやってきた』レイ・ブラッドベリ著 晶文社

 物語です。ハロウィーンの日に子供たちが本当に世界各地の墓地や魔女に出会いに回るという話。レイ・ブラッドベリはSF作家だと思っていたので作者の名前を見て少しびっくり。此の本は結構娯楽的要素強めですが、同作者の『たんぽぽのお酒』は狂おしいくらい好き。

 

・『武器としての映画』ミゲル・リティン、山田洋次 岩波ブックレット

 クーデターの起こったチリを亡命して尚映画を撮り続けた監督ミゲル・リティンのインタビュー集。大衆文化としての映画ではなくて、張り詰めた情勢の裡で意志を伝達するための武器として映画を作成した。

ホームビデオみたいな映画が結構本質を突くのじゃないかと思う。娯楽映画というよりも記録映画として?

 

・『生物学のすすめ』J・メイナード=スミス著 紀伊国屋書店

 生命とは何か。突き詰めるときっと神と関連してくるのだけれど。ほとんど理解できないのだけれど、生命の起源と本質を探る姿勢は共感できる。此の本もかなり著者の思想が根底に漂っています。生物学的な考え方を学べる本。

 

 

 

・『私の読んだ本』松田道雄著 岩波新書

 松田道雄さんの読書経験の記録。読書に方向性がなかったため其の当時の自分は”成熟”というよりも”肥大”化していたのだという言葉を聴いてドキッ。私の読書経験は”肥大”だな。今はそれでいい時期だと思うのだけれどね……。

 

・『人類危機の十三日間』ジョン・サマヴィル著 岩波新書

 キューバ危機の際にアメリカの大統領や国防長官の間で取り交わされた会話を基に構成された戯曲。深刻なテーマを非常に軽妙に叙述することのできる技量。

 核兵器を所有する人類が、一方で”人間性”を謳うとはね。此の歪みを直視せず誤魔化しているのが現代なのですか。私たちの日常生活にも繋がってくる危険性があると思う。歴史的価値のある著作です。

 

とりあえずこのくらいかな………?

全ての世界猫が雨を凌げますように。

 

本当に真っ新な悲しみを映し出した鏡を私は知らない。

私は君が今迄した行いの裡に一点の曇りも見つめていない。

此の両者は矛盾を含むようで、又明らかにそうでもあるのだけれど、

忘れる前に。

フッと香る君の体臭や、発する嗚咽、

其の全てを余すところなく積極的に創造できぬものか?

不穏な日常を穿つ一本の錐となるだろう。

核心は、汚穢や美徳よりも

自己か他者。

自身の掌で掬ったものが愛おしい。

 

未来のことを思い描いたら終わりだと思う。

今此の現在さらには一瞬間其れだけで十分で十全ではなかろうか?

自分が起こした行為に関しては、やった傍からサラサラ忘れて行こう。

チャレンジした其の投機だけで十分だから。

私が起こした自己投機の先に、どんな評価や反応が下されようが、そんなこと知っったこっちゃあるか!!

私にはそれが必要だった。

其のことが痛く切なく分かった。

 

こんな文章、不完全で未解決だけど。

”明るさ”のみ?

 

例え0.00000000000001でもいいから自分が未来へ向かって進んでいるのだと信じたい。

其れは君が信じ切れていないから。

其れだけでいい。

丁度此の数秒の揺らぎだけでいい。其のためだけに例え私が駄目になったとしても。

愛情を信じたいと痛切に思う。

けれど愛情を信じることは難しいのだ。

尤も単純で単純すぎるからこそ人々が嫌うもの。

最後の一滴をコップに注ぎなさい。

彼女が死ぬ間際に書き残した断片は、丸でガロア理論のように感傷的。

”死”よりも絶対的な何かを。

君じゃなきゃ駄目なんだ。

今日じゃなきゃ駄目なんだ。

今じゃなきゃ駄目なんだ。

私はへこたれないよ。

私の内側に丸まっている精神の厚紙。

インクで文字を書いたら、机が黒で濡れたよ。

哀しさ、矛盾、dilemma、それ等を有りの儘身体に載せて運ぼう。

暗さを明るさで置換することは不可能だから。

暗い表現は必要なのだ。

淡々と冷たい風力が。

其れは、終着駅で怯懦に含羞むため。

川崎洋の詩のように。

例え、自己嫌悪でも自己憐憫でも自己否定でも、

幾度も繰り返しても、又立ち上がる”弱さ”を

どうか許してください。

”メモ”と”ノート”

 

 

 

人と話しているときはノートをとれないし、ノートをとろうと思えば目の前の人の話が聞けないし。

 

なかなか困る二律背反だよね。私は結構メモをとる方なのだけれど、(ものすっごい忘れっぽくて頭の整理が苦手なので)、人と話をしながらだとまず無理だよね。確か私は中学校の時も先生の話を聴きながらノートをとる同時作業はできなかった。そして高校生の時は開き直って、ノートはとらなかった。その代わり授業の1時間は能う限り傾聴した。という建て前を盾にして切り抜けた。

 

観たい映画や読んでみたい本や人からのおすすめや、ぱっと思いついたセリフや予定、アイデア、駄洒落なんでも乱雑に黒のボールペンでメモ帳に走らせるのだけれど、まあ体系的で決してない。メモ=乱雑という等式は証明済ですか?

 

メモは走り書きで、其れを通覧して絡げるのがノートの役目。此の二つの機能性は区別すべきだよね。違うかな?”メモ”をとろうとして”ノート”をとらないように!短時間の仮のよすががメモであって、落ち着いてもう一度思考を組み立てる役割を担うのがノート。例えばブログに書き込むのは”ノート”としてだよね。

 

この文章は自分を諫める目的で書いているのだけれど。自分がこれから転換していくことを望むのならば絶対にきちんとノートやメモをとることが必要なのだと予覚するのだ。綺麗に書く美意識よりも、下手でいいので自己の思想を確かに不完全ながらも肉付けしていかないと耐えきれないと思う。法則性・規則性・一人の人間の世界認識の照射性を導入すべきだと思う。そろそろ自分なりの格率を何となくでもいいから規定しておかないと足を滑らせる時期だろう。

 

できる気がするんだ。できる気がするんだ。

 

あともう一つは自分の弱さを惜しげ無く見せること。この辺りを真摯に向かわないと私の場合は危ういね。多分悪い意味で”真面目過ぎる”のだから。

 

自分の”いい”と世界の”いい”が一致していれば続けられる。しかし世界の”いい”が変わった時にどれだけの人間が自分の”いい”を保てるか。そして世界の常識は往々にして移り変わるのだから。

 

私は自分の強情性を伸ばす道を運命的に選んだのだから、ならば其の選択を決意した自分の表裏を有りの儘曝さねば。そうじゃないと自家撞着を抱えて一生苦しむよ。常に真っ直ぐな姿勢である必要性など無いけれど、其の芯に近づきたいと指向する私の素直さよ。

 

顔を蒼穹に掲げて歩くことのできる人は素晴らしい。きっと。私もせっかく取り組むのならば心からやりたい。少なくともその心意気を底に湛えながら………

今日も生き延びようか……?

 

最近の通過点

大切なこと幾つか。

 

 何万回も繰り返して分からなくて、其れでも分からなくて繰り返して付き合っていくそんな関係がいろんなものと結ばれていいと思うのだ。

 

 信じてしまうこと。自分が愛されて、愛してしまっていることを思い切って認めるのだ!私がこの社会の一部で様々な人の助けになっていると勝手に決めつけてしまおう。ウフフ。

 

 感動すること。そして感動を自己が表現すること。此れはジャン・ジョネの『泥棒日記』より。

 

 本当に一つのものを信じていいと思うのだけどな。そして其れが世界を変えているのだということも。

"楽しさ”

楽しいと思うし、楽しいと思おうと思う。

そうすれば楽しく思うから。

思い込みであって構わない。

だから私はなるたけ口に出す。

「愛してる」「大好き」「美味しい」

もっと人間が人間を思う時間が増えていい。

テレパシーを強く念ずるのだ。

届け。届け。

ビビビ!

「安部公房」はまず名前の読みが分からないのだ

 

 安部公房は小説としては、結構奇想天外な作品が多いので、読みやすいし今の人にも大分受けがいい良いように感じる。私も昔文庫本か何かで「人間そっくり」や「奴隷狩り」などを読んだことがある。物語の展開が早いので、スラっと短時間で読むことのできる作りになっていたと思う。あまり肩を凝らずに読むことができるよね。

 

 ただ当時読んだ時にはあまり印象に残らなかった。私には面白さがいまいち分からなくて……。確かに発想の奇抜さは面白いのだけれど、それ以上の魅力がどうも分からなかった。

 

 最近、安部公房さんの脚本の「幽霊はここにいる」の演劇を観た。此れは面白くて。台詞や登場人物の動きが実に活き活きしていた。安部公房さんの小説は演劇を意識して書かれているから、其れが文面に写し代えられた時に、矢張何割かの奥行は失われてしまうのだと思う。又安部公房さんの小説には台詞も多いよね。其れが読みやすさの秘訣にもなっているのだけれど。ただこの小説は掛け合いになっているので、実際に演劇で人がやり取りしてなんぼなんだね。だから安部公房さんの演劇と小説の落差には納得した。なるほどなと思って。

 

 演劇論も数多く書かれているので、恐らく小説よりの演劇に力を注いだ人なんですよね。という一人合点をしたのでした。安部公房さんの面白さの再発見をしました。