懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

『激突』

 

普通車を運転する一般人の車が、タンクローリーで延々と追い駆けられるサスペンス映画。

筋は、全くその通りでただただ追い越しをしてタンクローリーの運転手の反感を買った主人公が嫌がらせの域を超えた異常なstalking行為を受ける話。だから車の追いかけっこだけで、一時間半の映画を撮ってしまうことは凄いし、シンプルな映画の面白さを味わえると思う。根拠はないけれど、何だか年々映画の脚本は複雑化している気がするから。

映画の本質として一つには、大画面での能動的に動く迫力があるよね。此の『激突』はテレビ画面ではなく映画のスクリーンで見てもらいたいんだと思う。

テレビドラマの場合は、出演者の会話を逐次集中して追わなければ置いてかれてしまう。其れはテレビドラマが物語の複雑性に重きを置く傾向があるからだ。一方で映像に於ける利点もある訳で、特に映画の場合あの大画面で映る映像其の物に幾割かの価値があると思う。『激突』は此の映像の長所を最大限に活用して作られているのだね。car-chaseのスピード感をどのように撮ってドキドキさせるか。

 

サスペンス映画とホラー映画ってあると思うのだけれど、何となく見ていて、その違いの自分なりの解釈ができた。サスペンス映画は現実の枠組みの中で緊張感・恐怖を演出する映画なのだ。反対にホラー映画は、超常現象など非現実なものを利用して恐怖を与える映画なのだ。だからホラー映画と比べると、サスペンス映画にはきっとご都合主義は少ない。多少ね。例えば幽霊から逃げ出して、トイレに逃げ込んだらトイレの自分の背後にパッと幽霊が現れたなんて表現は、物理法則に支配されたサスペンス映画では不可能なんですね。

 

主人公の男性は、冒頭で少し自分勝手で中心的なキャラクターとして描かれている。もちろん彼は非常に一般的な性格の持ち主である。けれど其の誰しもが持っているちょっとしたトゲが、abnormalな人間の心に火をつけて偏執的な殺意を向けられる。タンクローリーの運転手は明らかに狂って見えるのだけれど、カフェで食事をしたりスクールバスを押すのを手伝ったり、一面的には普通の人間でもあるのだね。あくまでも流れる映像はタンクローリーであって、最後まで運転手自身の顔・姿は描かれない。正体が分からない怖さがある。この映画の中で取り出されたのは”異常性”。タンクローリーの運転手を隠すことによって”異常性”という感情のみを抽出している。人間よりも感情で進展していく映画の作り。

 

 

 

最初に流れるラジオ放送が、少し平凡で少しおかしく丁度よい塩梅になっていると思う。「豚肉・牛肉で曲を演奏します。」という視聴者からの返事が、絶妙に不気味だよね。

 

『未来少年コナン』

子供の頃、母親からコナンがやってるよと言われて、テレビの前に駆け付けたら「未来少年コナン」だったので幻滅した覚えがある。コナンと言えば「名探偵コナン」だったからな~。

 

未来少年コナンは生命力の至上性の物語。晴れ晴れと走って飛んで、精神力と身体能力で科学文明の世界を生き抜くのだね。生命力を唯一の武器として、戦闘機も軍隊も乗り越えてしまう。

モンスリーの台詞「私もいっしょに行くわ」を聴けただけでも見た価値があったと思うのだ。コナンは最初から真っ直ぐすぎるし、ダイスは最後までふざけているし、人間の成長という観点から言えば、主人公は絶対にモンスリーなんだ。

 

登場人物が皆人柄がよくて、其の内面・雰囲気の描き方が大変巧みだと思う。

 

『black mirror』ドラマ

 

非常に現実的なsfドラマ。情報社会。今我々の促進される情報技術の延長線上に仮定される10年先位の未来社会。かなり残虐なシーンもズカズカ挿入するので、子供が観るようなドラマじゃないなというのは正直な感想。

 

遥か先の絵空事ではなく、我々とそう変わらない数年先の未来設定という点がポイント。進み過ぎた化学技術に対する反駁かと思いきや、ドラマの作りは、ただただrealityを持たせることに重点を置いている。だから話の筋も救われない話は最後まで救われないし、逆転劇?のような構造はまずないね。要は最先端の技術が当然となった日常で起こる事件をリアルタイムで追うような、そんな魅せ方をしてる。私たちは、テレビで中継される生放送を見ているような立場に置かれる。又あんまり出てくる登場人物に感情移入もしにくいと思う。其れはドラマの構造上であって、私たちは傍観者で、未来社会の出来事が時系列で順々に羅列されるという手法をとっているからだ。

未来社会での大事件も、現代社会の大事件と同等に扱っているから、ドラマの制作者は科学文明に対してflatな見方をしている。其れは不思議なんだ。斜に構えて、私はテクノロジーに対する否定的要素を探すけれど、最後まで淡々と進行するドラマの裏に感情的気質を見つけることはできなかった。

明らかに脚色されたドラマなんだけれど、しかしドラマの枠の中でかなり中立的な立場を守っている。語弊があるけれど、ドキュメンタリーぽいんだよね。

 

 

非常にショッキングなシーンが多いので元気な時じゃないと観れないです。

もっと泣いたり笑ったりが分かりやすいドラマの方が好きだったりもする。

『ed wood』映画

 

 

オモシロいよね~。B級のさらに下の謂わばC級映画ばかり撮った監督の話なのだけれど。

ed wood という監督は実在していて、けれど後年酒で身を持ち崩してたらしいです。

どれだけ面罵されてもめげない彼の楽観的価値観にも限界があったのでしょうか?

 

ed woodの監督の仕方は型破りで、撮り直しもしないし、見せかけと誑かしで時間を埋めるし、辻褄も合わないストーリーだし、悪く言えば「チャランポラン」なつくりなのです。でも映画を作り続けて、寧ろ快く明け広げに続けた。やっぱり本人が楽しく作ることが第一だし。だから不思議とed woodの周りには人が集まって、彼は無計画に知人を起用するからいよいよ作成された映画は混乱を増します。蛸につぶされて、ロボが死んでしまったシーンや、ベラ・ルゴーシェを騙るために顔下半分を隠して演技するシーンなどは、私は笑ってしまいました。そう考えると長編のコメディ映画と採れるんでしょうか。臨機応変な柔軟な面白さを追求した人です。計画された緻密な面白さと、アドリブのような無計画の面白さの二種があると思っていて、この映画は明らかに後者ですね。

 

 

ed woodを救っているのは間違いなく彼の持ち前の明るい気質ですよね。其れが映画の本質だとも思います。純粋に自分が面白いと思ったものを撮るという。万人に受けるためにはその映画を均していかないといけないから。B級映画が面白いのは、世間の面白さの安定性の範疇から逸脱するからだと思います。其れは多くはマイナスへの逸れであって、しかし時にはプラスのズレであったりもするでしょう。B級若しくはC級映画の一定数は世間を無視した自己本位・身勝手を中心に据えていて、だからこそ独特な映画が撮れるのだと思います。

 

 

人類にとってB級映画は絶対に必要!!

『アンダルシアの犬』

 

普段自分が観た映画や読んだ本を雑記帳に漫ろにメモしているんですが、其の備忘録から、……。書いちゃえ。書いちゃえ。

 

『アンダルシアの犬』

狂気的な映像美術である。フランス語を解しなくても見れるという点は評価すべきだよね。つまり人体・大脳皮質の不可分について訴えかけるような。根源的な人間の錯視や歪曲、思い込み、慣習、予測を利用して作られている。脈略のない出来事を繋ぎ合わせるという手法。よって物語の筋を排している。瞬間、瞬間はバラバラなのだ。例えば一人の人間の生涯の一場面を任意に抜き出したような……。そして其れを作為的に並べ替えることを拒否する。

サルバドール・ダリが芸術家であるから定式化に対する反発が底に隠れている。でもここが難しいのだけれど、全くの出鱈目ではなく、一人の人間が意志する限りはその断片をある程度結ばなければならない。ダリは定式化しないという意味で物事を配列していた。極限まで行けば、人間の分解不可の部分が知覚できるから、逆に、その映画は人間と同等でかなりはっきりする。意志の方向性は人間に立ち昇って、ダリは其の纏う気概を拒絶することができなかった。

「殴り書きしてみなさい」とでも言われて、クレヨンで野放図に描いた曲線は、100枚でも描けば裏に人間性が現れてくる。混沌である程、無意識の表現性が表出する、と思う。

 

 

私はこの映画好きだな。だって、常識に対する反抗的態度がありありと見えるもの。

製作は、映画監督ルイス・ブニュエルと芸術家サルバドール・ダリ

娯楽映画というよりも芸術作品といった側面が強いかも。

寿限無寿限無を最後まで言えない……。

此の弱い精神をつなぐために、其の生命を原動力として行った行為の帰結は素晴らしい筈なんだ。

ということを日々何処かで感じ取っている。

やらないよりはやった方がよく、けれどそのやったでは不完全だと思う。其の原因に気づいた時から新たに世界は移り変わる。

 

やはり此の雲間は何処か不完全ででも其の不合理が何処か懐かしく。いつも通った並木道も数年たっただけで新鮮な驚きを忘れてしまう。予定調和に近づいて不可思議性を見落としてしまう。

 

ハンバーガーなんて異国的な言葉、私は知らなかった。

 

自分が傷つくことなく芸術的なものは創り出せ得ない。芸術とは時に痛切な骨肉と呼べよう。コンプレックスや矛盾をなままな儘紙片上に曝け出す勇気がいる。

けれど内面の苦悶が大きければ、其れだけ真実味も色濃く出るから。

人間は大いに苦悩して葛藤して、其の出口が芸術なのだね。

 

無限について考えてみたいと思う。無限は思考上のみで実現可能な哲学だ。

けれど不可能ではないんだね。静かな夜半に考えこめばいいのだから。

あるいはファストフード店のプラスチックの椅子の上で……。