懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

『home land』season1

 此のドラマは面白い。

面白いのだけれどどうも単純な面白さでは形容できない。例えば、『インディー・ジョーンズ』やドラマ『メンタリスト』を見て私は素直に面白いと思う。けれど其れは感動ではない。

反対に、『ワンダフルライフ』や『ダンサーインザダーク』を見た時は感動して、其れは面白さではなかった。

ホームランド』は感動を面白さに置き換えようと試みた作品なのだろうと思う。

 

話の内容としては諜報員とテロリズムの話である。けれどアクション系では全然無くて、緊迫するシーンが半分、人間関係が半分といったところであろうか。其れも落ち込んだり巧くいかない人間の様が多く描かれている。

主人公はBrodyとCarrieだけれど、二人とも表と裏を持っていて、周りの人間からは理解を得難い気質として扱われている。

最終話も悲劇的で唐突な終わり方である。Carrieが更生のために電気療法を受け呻くシーンで急に画面は途切れる。見てる人はモヤモヤすると思う。物語に逐次展開する出来事が、大団円への布石としてなのか、破局への布石なのか分かりにくい。

結局、国家の狭間で揺れ動く一人の人間の心のありようを映すドラマである。内的葛藤を作り出すために、副次的に諜報員という状況設定を設えたはずだ。

けれど反対にサスペンスの要素を抜いてしまったら恐らく見ていられないから、其れも大変である。葛藤の重苦しいテーマがストレートだと、かなり見ることに忍耐力がいるのであるから。

人間の心理描写を感動でも楽しさでも悲しさでもなく「葛藤」にフォーカスした珍しいドラマだと思う。

 

月の影を踏んで

 

 文章を書くことによって、辛うじて生命を宜うことができる、そういった人々もきっといるのだ。と今はそう思います。

 

 「美しい」光景を「美しい」と形容してしまえば、その美しさは消えてしまう。何だかそんな気がします。

 

 一日が終わるときに、「今日はいい日だったな。」って風に向かって呟いてごらんなさい。たとえ嘘だったとしてもそう嘯くことができたなら今日はいい日だったのです。

 

 

私は生きるためにしたいと思います。其れは知能や知性や知識や技能や技術のためではありません。自分が生きるために表現せずにはいられないもの。表現することが自分の根底と深く結びつくもの。今の私には未だはっきりとしていませんが…。

自分の発した言葉、目線、所作、其の片言隻句・一挙手一投足を有りの儘naturalに供出できればもっと気楽なのだと思います。

きっと私は不必要なものを餘に多く持っているから……。

『幻の光』

 

幻の光』。是枝裕和監督の映画です。

 

多分、是枝裕和さんという方が、人間の平凡な日常と其の裡で醸される感情の機微ということに鋭敏な感覚を持っているのだと思います。

幻の光』は、一人の人間の平凡な日常に対して重点を置いていると思います。

ただ何となく不思議と自殺してしまった主人公の夫に関する限りでは、平凡と称するには不謹慎でありますけれども……。

自殺ということのみではなく、もっと普遍的に人間は遍く生と死の感情を抱いているのです。其れは激しさではなく寧ろ静かに内奥で燻っています。「其の生と死の天秤が、明暗の天秤がほんの少し傾いただけで、人間は死んでしまうかもしれない、若しかしたら生きてしまうかもしれない。そして其の生と死のバランスをとりながら行われる静かな生活こそが人間の本来の営みなのです。」というようなことを伝えたかったんじゃないかなと私は勝手に解釈しています。

100%の”生”なんて存在しないのですから、人間はいつも其の両端の存在を司どっています。そしてそこから恐れも喜びも織り成されていくのです。一人の人間の影も光も複合的に結びついて、絶対的にその人間を作り出します。危うさを含まない人間はきっと希薄な人であって、逆説的に全ての人間は歪みを孕んでいる筈なのです。

とりたてて大きな原因が無くても人間は死んでしまう可能性を秘めています、きっと。私には其の原理が分かる気がします。

 

”生”と”死”を対比や善悪論で捉えることはきっと間違いなんです。其れ等は糾われた一本の縄なのです。

 

 

八島藤子 『私は広島を証言する』

其の最後の一節でも私は忘れてはならないと思うのです。

 

 

………

 

わたしは生き残った広島の証人として

 

どこへ行っても証言します。

 

そして「もう戦争はやめよう」と

 

いのちをこめて歌います。

 

………

 

 

 

 

此のいのちをこめてと何故綴れるのでしょうか?

こころをこめて、でないんですね。いのちをこめてなんですね。

私はこの詩を読むと此の一行でいつでもハッと生鮮に立ち返って、驚きます。

其れは私の内部が其れ程に成熟し醸造して……いないからです。

この詩の文面の裏に一体幾つの時代の変遷があるのでしょうか?

其れを知らないということは若しかしたら幸福なことなのかもしれません。

あるいは

自分で自分を肯定するって……不可能かな?

 

広大な大地は赤々として限りがなく、

 

蒼穹は悠長に青々と繁っている。

 

生命の挽歌。

 

 

 

若しも私が百万光年の道のりを歩くとしたら、

たった一つの失敗や成功にくよくよしても仕方がないだろう。

コップの水が零れたからといって、若しくは足りないからといって

焦ったり嘆いたりしないだろう。

寧ろ継ぎ足された生命の遠路を、両腕で愛するだろう。

 

君が歯を見せて笑った時、糸切り歯の間には黄色い蒲公英の花弁が挟まっていた。

私は此の広大な宇宙の軌道を旅する時

決まって君の不器用な歯並びを思い出すんだ。

水槽越しに眺める室内装飾のように

曖昧なはにかみを私も残しておきたい。

 

何時か天文学的確率でrendez-vousする日々を楽しみに待って。

宇宙デブリの合間を緩慢に泳ぎながら………。

 

 

 

 

泣きたいぐらい美しくて…美しいぐらい悲しくて…って多分初めてビデオを観た人は思ったと思う

今まで、余計に時間の掛かることや無意味なこと諸々っていうのはよくてギリギリevenで何方かと言えばマイナスだよなって考えていました。

でも寧ろプラスなのかもしれません。何となく、何となく其の可能性を感じました。

例えば一生の人生の中で、本を100冊読んだ人と10冊読んだ人と比べると、100冊読んだ人の方が偉い?みたいな話になるんだけど、私は別に10冊でも1冊でもいいと思うのです。

 

cowboy bebop』の「speak like a child」を観ました。ビデオテープの滅びた未来都市でとっても苦労してビデオテープを再生して、そしたら自分の思い出のビデオだったっていう話です。過去の遺物と化したビデオテープも、ただただ懐かしい思い出の映像も全てが全く洗練されていなくてでもだからこそ訴えかけるのだと思います。

舞台が極度に合理化された未来ですから、人間にとって不合理性の必要が分かりやすいです。多分此のアニメの主題自体が、無駄を削ぎ落していった未来の中で対照的に発散する人間味ってことだと思います。人間がビデオを観る良さが凄く腑に落ちます。

 

映画を観たり本を読んだりっていいなって改めて感じました。好きであることの根本的部分を少し肯定できました。

アナログ的なものに憧れているのかもしれません。 

 

おわり!

私なりの向き合い方

私は「永遠」って存在すると思う。反対に永遠という仮定からしか人類は誕生しえないと思う……。

 

何か物事を始めるときに、其の瞬間は永遠に続くつもりで行っている。もちろん全てのものは有限なのだけれど、思想の上では限界を設けないでいたい。

有限回の中で結果を出そうとするから論争も戦争も起こるのではないか。私たちは何処迄いっても未完成で何度でも失敗を繰り返せる。此の悪く言えば悠長で冗漫な世界観が人間の凡庸を守ってきた気がするのだ。

〇か×か峻別する前に、若しかしたら△かもしれんし□かもしれんな~という曖昧と気長が含まれていてもいい。様々な個々の特質を許容することができたから人類は発展してきたのであって。まあ段々その枠組みは規定されてしまうけれども、それでも×の中にも悩みや迷いの内にも輝きである日々があるのだ。苦悩と思考は表裏一体であるから、其の表層だけを掬いとっても結果だけを求めても土台無理だと思うのだ。誰にも認められない浅はかな自己欺瞞や自己満足に沈潜する日々がきっと明日を創っていく。明るい部分だけを切り取ろうと試みても不可能だ。

「利益」と「損失」や「かっこいいもの」と「かっこ悪いもの」といった評価基準が世界的に固定化しつつあると思う。けれど実際はその辺かなり曖昧で、見る方角を変えれば幾らでも又別の理論を構築することができる。世界常識なんて流行みたいなものさ。(此れは言い過ぎ。)

 

現在の世界って凄く細かく複雑な規則があって…?、曖昧さが排除されつつあると思う。物と物とを比較したり、優劣を付けやすくなった。反対に「永遠」という概念はより根本的な絶対的価値だと思う。丸で時計は秒針を刻んでいるのに、感動で時が止まって感じるときのように。全肯定の人間の思想的価値から端を発した仕事は、とってもいいものを残すと思う。 

 まあ其の心持でいることは難しいんだけど?。