懐かしくて色褪せないもの

世界が平和であればいいね

”メモ”と”ノート”

 

 

 

人と話しているときはノートをとれないし、ノートをとろうと思えば目の前の人の話が聞けないし。

 

なかなか困る二律背反だよね。私は結構メモをとる方なのだけれど、(ものすっごい忘れっぽくて頭の整理が苦手なので)、人と話をしながらだとまず無理だよね。確か私は中学校の時も先生の話を聴きながらノートをとる同時作業はできなかった。そして高校生の時は開き直って、ノートはとらなかった。その代わり授業の1時間は能う限り傾聴した。という建て前を盾にして切り抜けた。

 

観たい映画や読んでみたい本や人からのおすすめや、ぱっと思いついたセリフや予定、アイデア、駄洒落なんでも乱雑に黒のボールペンでメモ帳に走らせるのだけれど、まあ体系的で決してない。メモ=乱雑という等式は証明済ですか?

 

メモは走り書きで、其れを通覧して絡げるのがノートの役目。此の二つの機能性は区別すべきだよね。違うかな?”メモ”をとろうとして”ノート”をとらないように!短時間の仮のよすががメモであって、落ち着いてもう一度思考を組み立てる役割を担うのがノート。例えばブログに書き込むのは”ノート”としてだよね。

 

この文章は自分を諫める目的で書いているのだけれど。自分がこれから転換していくことを望むのならば絶対にきちんとノートやメモをとることが必要なのだと予覚するのだ。綺麗に書く美意識よりも、下手でいいので自己の思想を確かに不完全ながらも肉付けしていかないと耐えきれないと思う。法則性・規則性・一人の人間の世界認識の照射性を導入すべきだと思う。そろそろ自分なりの格率を何となくでもいいから規定しておかないと足を滑らせる時期だろう。

 

できる気がするんだ。できる気がするんだ。

 

あともう一つは自分の弱さを惜しげ無く見せること。この辺りを真摯に向かわないと私の場合は危ういね。多分悪い意味で”真面目過ぎる”のだから。

 

自分の”いい”と世界の”いい”が一致していれば続けられる。しかし世界の”いい”が変わった時にどれだけの人間が自分の”いい”を保てるか。そして世界の常識は往々にして移り変わるのだから。

 

私は自分の強情性を伸ばす道を運命的に選んだのだから、ならば其の選択を決意した自分の表裏を有りの儘曝さねば。そうじゃないと自家撞着を抱えて一生苦しむよ。常に真っ直ぐな姿勢である必要性など無いけれど、其の芯に近づきたいと指向する私の素直さよ。

 

顔を蒼穹に掲げて歩くことのできる人は素晴らしい。きっと。私もせっかく取り組むのならば心からやりたい。少なくともその心意気を底に湛えながら………

今日も生き延びようか……?