ベルグソンの著作なんて読んでないのです。ただチラッと見ただけです。チラッとチラッと。図書館で借りて来たはいいものの、読み飛ばして、其の儘いつもの返却コースを辿りました。
だから9割9分自己解釈の雑記です。
時間っていうものは存在すると規定してもいいし存在しないとしても、まあまず問題ないものですよね。ただ恐らく現代の社会形態に合致するから採用されている概念だと思うんです。では、時間っていう概念を実際に知覚化できるための要素が必要なんですね。
時間というものの経過を私たちがどうやって実感するかというと、其れは”変化”によってだと思います。例えばA地点からB地点迄私が歩いた時に時間が経つのは、移動という”変化”が起こるからなのです。立ち止まっていたとしても、日が昇って沈むという風景のグラデーションを知覚するから、判断できるのです。
反対に、周りの風景が変化しなければ、時間経過を図ることは困難ではないでしょうか?というか不可能?私が布団で丁度丸一日寝ていて、全く同じ環境で目覚めたとしたら、昨日も今日も関係ない気がします。
時間の本質は”変化”であるのです(人間にとって)。時計っていう道具は、此の変化を見やすくするが故に重宝されています。針の位置の変化で時間経過を表すのです。
ベルグソンは、⋄この変化に関係なく永久に流れ続ける時間 と
⋄人間に知覚可能な変化によって裏付けされた時間
というものを区別していたような気がします。時計による時間の定義はどちらかと言えば後者ですね。
そうすると時間は流れているけれど、人間の感覚では止まっていると感じる場合もあるのではないでしょうか?
例えば周囲が自分を起点として、コーヒーカップのようにグルグル回り出したとしたら、私は全く同じ速度で同じ方向へ顔を傾けていきます。そうすると私に対しては世界はずっと同じ光景を維持します。でも時間は経過していますし、変化もしています。
もう一つは、世界が全て静止して、変化はないけれどその中で時間だけが経過する場合です。非人間的実験で、白い研究室に人間を隔離したりする場合に近しいのではないでしょうか。
どちらの場合も観測する人間自身に依る変化は規制されていないので、不備は山ほどあるんですが、観測者に対して、観測対象は時が停止して見える筈です。
あと”変化”の意味についても考える必要があるんですが…。
パッと思いつく限りでは二通りあります。物の形を変えずに、位置だけが変わる場合と、物自体の形が変わる場合です。例えば、水が水蒸気に変わったり、人間や植物が成長することは、形自体が変わる変化ですね。科学で習う、可逆反応、不可逆反応とは少し異なる感じで用いています。
まあでもこんなことを考えていてもキリがないですね……。
人間は不完全ですから……。
今度きちんとベルグソンの著作を読みたいです。
そんな日は来るだろうか?