『二等兵シュベイク』はハーシェク作の小説です。
第一次世界大戦か第二次世界大戦か良く分からんですが,(許して),戦乱の世の中にチェコの国内で生き抜いた二等兵シュベイクの物語です。
小説のジャンルとしてはユーモアが溢れに溢れています。
日本に於ける夏目漱石の『吾輩は猫である』と似たような系統であると思います。
『吾輩は猫である』も読んでいて、思わず笑い出してしまいます。
人間存在の根底に在る矛盾を、可笑しみとして爆発させてしまうような。
剰りに世界を、透明で鮮やかに貫き通してしまうような、楽観主義とエネルギーを一体何処から取り出すのでしょうか?
世界が混沌に陥った時、きっと一人一人は笑い出してしまうと思います。
あべこべに出鱈目に世界が高速回転しだして、此の無限の渦に吞まれながらきっと高らかに声を上げるでしょう。きっと其れは、継ぎ接ぎもチグハグも笑って抱きしめてしまう愛。全存在を肯定で押し切ってしまう愛なのです。火花の原子根のようにか弱い情流を始点として、逆さまに世界を眺めてしまえばいいと思います。其の時こそ、真っさらに素直に何もかもをを慈しむことができる筈です。
此のパワーを生命の根源に、ドミノの一番初めに置くことができたら……。
▮『二等兵シュベイク』の好きなシーンについて
⋄シュベイクが隣町(か若しくはもっとず~~っと遠くかもしれません)の戦線に赴く際に、駅で一悶着あって、結局シュベイクは汽車に乗れませんでした。
代わりに、雪の降る夜道を、シュベイクは一人目的地へ向かってトコトコ歩いていきます。雪は緩やかに大地を潤します。シュベイクは、歌でも歌いながら、クリクリのお目目で元気に行進します。最果ての暗闇へと続く小道を、鼻歌交じりに悠々と歩きます。時々疲れれば、道傍に腰掛け煙草を一服して、それでも歩きます。 それでも歩きます。何と愉快な夜間飛行でしょうか。
どんなにゆっくりで少しずつでも、シュベイクは最後にやり遂げてしまうのです!
⋄営倉にシュベイクが閉じ込められた時のこと、シュベイクの他に 古参の一年志願兵も閉じ込められていました。二人は下らない与太話で房の無聊を慰めます。が、実は此の一年志願兵は古典哲学の研究をしているのです。まるでプロレタリア文学のような……。”営倉”と”古典哲学”という単語が双星のように釣り合って感じます。
林芙美子や平林たい子のように、盗みも犯罪もし、破廉恥と罵られる雑多煮の中で醸造されつつあったお世辞にも上品とは言えない文学の羅列たち。物語の奔流に古典哲学の4字はピタリと収まります。人間味のある飾り気のない血肉の通った学問として、私は凄く好きなのです。
きっと 「学問」⇔「路傍に粗雑に転がっている思想」 なのです。此れが大事。
人間にあっけらかんとした力を与えることのできる小説ってすごく大切だと思うのです。紳士的でないと言われるかもしれませんが…。
それでも私は笑ってしまいますし、笑っていられる内はまだもう少し生きていられると思うのです。
笑うことに理由はいりませんから。